2012年04月24日
旭菊(あさひぎく)|旭菊酒造株式会社
旭菊(あさひきく)|旭菊酒造株式会社
福岡県久留米市三潴町壱町原403酒名:旭菊(あさひきく) ■創業:1900年(明治33年)4代 ■杜氏:蔵元杜氏 ■仕込み水:中軟水 ■訪問日:2012/4/24
代表銘柄
旭菊酒造株式会社は明治33年(1900年)、原田勝次氏が創業した現在4代続く酒蔵です。

勝次氏は酒造業を行う以前はこの地で醤油製造業を営んでいたそうです。
この時代は西南戦争から始まり、日清・日露戦争と続く戦争景気で、城島の酒蔵は大いに繁盛したそうです。それを近くで見ていたら誰だって酒造業への参入を考えたのではないでしょうか?
勝次氏は醤油製造業から酒造業へ参入。
創業当初の酒名は現在と同じ「旭菊」という酒を造り始めます。
勝次氏がおこした酒造業は順調に成長したようで、この蔵から2件の分家が現れます。
しかし第2次世界大戦に入ると状況が変わります。
戦争で米不足となり、主食である米で酒造りを行う酒造業は企業整備例の対象となります。
蔵元の話によると、この地域だと3〜4件に1件くらいの割合で酒造業を止めさせられたとの事。
企業整備例によって、旭菊から分家した2蔵は酒造業を継続できたもの、本家の旭菊は一時期酒造業を中止させられます。これが後々、旭菊の運命を変える事になります。
写真の方は4代目蔵元、原田 憲明さん。

真新しい蔵は2011年に新築されたされたもの。
戦後、九州には大牟田、筑豊といった炭鉱地域があり、とても景気が良かったそうです。
そういった産業背景から日本酒の消費が多くその結果、福岡には多くの酒蔵が残ったのはないでしょうか?
戦後は黙っていても売れていた時代がしばらく続いたそうです。
戦後しばらく経って旭菊は酒造業に復活しますが、戦後復活組はその景気に乗れずに苦労されたそうです。 先代蔵元の話によると「売るところが無い」との事。
というのは当時は税務署の指導のもと流通が整備され、問屋流通に入り込むことが簡単では無かったそうです。
問屋さんには戦中から止めずに酒造業を行なっていた蔵の酒が既に幅をきかせています。
消費者も今のように様々なお酒を飲み比べるような飲み方ではなく、1級、2級いった級別でお酒を選んでいた時代。
その為、問屋も多くの銘柄を揃える必要はなく、戦後に復活した蔵は問屋に扱ってもらう事は簡単では無かったそうです。
その結果、蔵は独自に販路を開拓する必要に迫られました。
しかし今考えると、卸屋さんとの関係が薄かった事によって独自の販売ルートを持つ事が出来ました。その結果、現在の独自流通となった時代に早々に対応する事が出来ました。
逆に卸業に依存し、独自販売の事業転換が行えなかった蔵は姿を消して行きます。
戦時中酒造りを続けていたという2件の分家は両方とも蔵を閉じてしまわれたとの事。
塞翁が馬ではありませんが、かつて負であった要素が現在ではプラスに結びつきました。
写真は蔵の主力商品、旭菊(あさひきく)。

旭菊酒造では現在、旭菊(あさひきく)と、綾花(あやか)という2つの銘柄の酒を製造。
旭菊は創業以来続く酒名。「綾花」は福岡県筑後地区大木町にて契約栽培している山田錦だけで醸した酒。
いずれも福岡県の山田錦を主に使用し、仕込み水は軟水の地下水を使用。
酵母は昔からある協会6号,7号,9号を使用し、香りを立たせたタイプではなく穏やかな食中酒を造られています。
写真は釜場です。
まだ真新しい蔵は、2010年に火災に遭われ翌年の2011年に新築されたもの。
現在の仕込みに合わせて設計された蔵という事もあって仕事の導線はとても効率的。
古い建物の酒蔵だと、蒸し米から麹室までフロアが異なったり距離が遠かったりと米の運搬が大変なのですが、釜場、室、仕込み、槽が一箇所にコンパクトにまとまっています。
写真は麹室、日東精工の物が使われています。

高価なことで知られている日東精工の麹室ですが、火災からに復活という事もあって、協力してもらったそうです。
釜場の直ぐとなりに設置されています。蒸し米を運ぶ距離は数メートルという近さ。
写真は仕込み部屋です。

写真では判りにくいのですが、壁ぎわには足場が組まれています。
タンクに書かれている日付を御覧ください。

平成23年2月28日と書かれています。
写真は槽場です。

建物から新しく作りなおした蔵なので、槽場も写真のようなプレハブで覆うことも可能。
福岡の冬は暖かいそうなので、これなら安心です。
仕込みタンクもプレハブで覆って空調を効かせれば四季醸造も可能になりますね。
訪問の証の記念撮影。試飲した旭菊に感心する吾郎。

2010年に蔵が火災に遭われた際に、地元福岡をはじめ全国の旭菊のファンの皆様から続々と励ましのお便りが届いたそうです。
多くの励ましが蔵を再建させる力となり、翌年には写真のような見事な酒蔵を再建されます。
かつて第2時大戦中に、企業整備例で休業を余儀なくされ、戦後の復活の際には大変な苦労されたとの事ですが、その時に構築した独自の流通が蔵の将来を助けました。
火災からの再建には、並ならぬ努力をされた事が想像できますが、出来上がった新しい蔵はまさに現在の酒を造るのには最適の蔵です。
新しい蔵は、きっと旭菊の将来に大きなプラスとなり、次の世代に語り継がれる事でしょう。
商品の購入・質問は旭菊(あさひぎく)|旭菊酒造株式会社へお問い合せ下さい。
TEL:0942-64-2003旭菊醸造元旭菊酒造株式会社
ここで書かれているデーターは筆者が訪問した時点の情報となります。
2012年04月24日
花の露(はなのつゆ)|株式会社花の露
花の露(はなのつゆ)|株式会社花の露
福岡県久留米市城島町城島223-1酒名:花の露(はなのつゆ) ■創業:1745年(延享2年)13代 ■杜氏:三潴杜氏 ■仕込み水:軟水 ■訪問日:2012/4/24
代表銘柄
九州の酒処「城島」。
筑後川沿いに多くの酒蔵が並ぶ、九州を代表する酒造りの産地。
その城島で最も長い歴史を持つ酒蔵が株式会社花の露です。


日本酒「花の露」を製造する株式会社花の露は、江戸中期にあたる延享2年(1745年)、を酒造業の創業年とする現在で13代続く酒蔵です。
蔵のルーツを遡ると、冨安一族がこの地に来た戦国時代末期に遡ります。
城島にはかつて「城島城」という城がありました。
この城は戦国時代に佐賀県周辺を支配した龍造寺氏に属する西牟田氏によって1585年(天正11年)に築城された城です。
株式会社花の露の祖先、冨安氏は、幼かった城島城の城主を補佐する役割として西牟田氏の家老としてこの地に来ます。
当時、九州地方は大友氏、龍造寺氏、島津氏による三つ巴の抗争が展開されていて、城島城はその境界線に位置しました。
しかし天正14年(1586年)に島津氏から攻撃を受けた際に、西牟田氏は肥前に逃れて行きます。
その後、豊臣秀吉の九州平定によって、大友氏の一族、立花 宗茂氏の所領となり、秀吉没後は、関ヶ原の戦いで石田三成を捕らえる手柄を挙げた田中 吉政氏が筑後一国32万5000石の大名となりこの地を統治します。
しかし二代藩主田中忠政氏に跡継ぎがいなかった為、この地は有馬氏の所領となり久留米藩(有馬藩)が明治時代まで続きます。
戦国末期に西牟田氏の家老として城島に来た冨安氏ですが、戦国が終わって久留米藩(有馬藩)の時代に入ると、領主に上手に取り入りながら地域の庄屋としての地位を確立。
この地域の下見役として金融業、庄屋の仕事、瓦を焼いていた時期もあったそうですが、その事業の一つに、当時事業として回りが良かった酒造業も行った、というのが酒蔵誕生の経緯だそうです。
庄屋として、とても大きな持ち分があって一番多かった時には300町の土地を持たれていたとか。
1町が9917平方メートルなので300町だと297万5100平方メートルになります。
東京ドームの広さが4万6755平方メートルなので、東京ドーム63.6個分の広さの土地を所有されていたことになります。
写真の方は13代目蔵元、冨安 拓良さん。

冨安家に残る資料によると、江戸中期にあたる延享2年(1745年)に酒造業をしていたという記録が残っている事から、蔵はこの年を創業年とされています。
ちなみに延享2年という年は、徳川吉宗が将軍をされていた時代です。
江戸時代の屋号は泉屋といい、一族から分家が生まれ「北泉屋」「西泉屋」といった感じに「◯泉屋」という屋号で酒屋をはじめたため、次第に「本家」と呼ばれるようになったそうです。
城島といえば九州の灘と称されるほど、大変多くの造り酒屋が存在する地域ですが、蔵元の話によると、酒蔵の多くは明治時代にかけて誕生したもので、西南戦争、日清・日露戦争による特需が城島の酒蔵を大きくさせたとの事。
「九州の灘 城島」(毎日新聞社)という本によると、西南戦争の時には街には諸藩の志士でで溢れかえり、町はさながら戦場のよう。宿屋だけではなく民家も下宿人がいっぱいである。
物価は急騰し1升、5〜6銭の酒が50銭の高値を呼んだ。
城島の酒蔵は造っても造っても足りない戦争景気により、止まらぬ笑いをもたらした。
残していた古酒まで引っ張りだこ。酒と名がつけば醤油みたいな色の酒でも売れた。
日清・日露戦争では、「小作 米を売るよりも酒を作るが如く」と言われるくらい酒蔵が増加。
明治31年には蔵の数は85社もあった。
と書かれています。すごい時代があったみたいですね。
明治以降、急速に酒蔵の数が増えた城島において、江戸中期から酒造りをされていたという長い歴史があると同時に、城島町長を務めたり、大川鉄道という鉄道会社を立ち上げたりと、この地域の名家的な存在です。

話を現在に戻します。写真は花の露を代表する銘柄「花の露 純米酒」。
花の露では、原料米は福岡県産の山田錦、夢一献を使用。
地下180メートルから汲み上げている硬度が約30という強軟水を用いて酒造りをされています。
ボリューム的に一番沢山売れている商品は上撰 花の露ですが、蔵を代表する商品は「純米酒」。
福岡国税局では平成15年から「純米酒の部」という、お燗を付けて審査をするといった新たな部門の品評会が行われているそうです。
この純米の部において過去に一回も賞を外した事が無く、去年は大賞をとってという酒が純米酒との事。
蔵元が目指す酒とは「地元の酒であること。」
福岡の醤油や味噌にあう食中酒、食に寄り添う酒。
福岡の醤油・味噌には甘さがあり、煮物でも少し甘くなるのが特徴だそうです。
そういう味付けには濃醇でキリッとした酒よりも、優しくて膨らみがあるふくよかな味の方がよく合うとの事。
流行りの味はそれをしたい他の蔵にしていただいて、ウチは昔ながらの味の酒を造っています。 第一印象で「この酒はスゴイ」という酒では無く、いつの間にか沢山飲んでいた、というクラッシクなスタイル。
お燗して飲んだりする時には負けない。
お寿司屋さんで使って頂く率が高い。
「上撰が美味しい」「普通のお酒が一番美味しい」と言われた時が一番嬉しい。
もし普通酒コンテストがあればウチの酒は絶対いいところに行きます。
きき酒会をしても本醸造を純米と間違えるくらい。それくらい普通酒、本醸造には自信がある。
との事です。
ワインで例えるとテロワールにようなもので、福岡の米と東北の米と溶け方が違います。
冬の冷え込みも東北では下からモロミを温める事がありますが、福岡ではそういう事はまずありません。それどころか仕込み水の一部を氷にして投入しているくらいですから、福岡の酒味が出やすいのです。
福岡が持つ気候風土によって、その土地の料理の味が出来上がるのでって、酒も地元の料理に寄り添う酒を造っていきたい。 有明海で採れる、クチゾコ(しらびらめ)を甘辛く煮た煮付けと花の露は最高、との事です。
福岡県の中で一番広と言われる木造の蔵、北部九州でも一番広いとの事。

写真の通り、昔ながらの建物の中で酒造りが行われています。
第一印象は、とても広くスペースが十分にある事。
蔵元の最近されている試みが「この土地が江戸時代と変わらない酒造りが今でも出来る土地なのか」という事への検証。
5年前から江戸時代と同じ製法の酵母などを添加しない生もと造りを実施。初年度は2本仕込んで1本はアルコール度数が7度しか出なかったそうですが、翌年から16度以上出るようになったとの事。
しかしこの試みはまだ準備段階。
写真は仕込み部屋。

蔵元が考えている最終的な目標とは「化石燃料を用いずに酒を造ること」。
化石燃料とは石炭、石油、天然ガスなどでもちろん電気もこれに含まれます。
原料米の製造から消費者への販売に至るまで、石油・電気を使いません。
これが出来て始めて「この土地が江戸時代と変わらない酒造りが今でも出来る土地」とであることが実証できます。
先ず何が難しいかというと一番最初の原料の調達が難しい。
農家さんにその話をしたところ「どうやって田んぼを耕すんだ」「どうやって田んぼに水をいれたらいいのか?」というところから始めなくてはいけません。
話を進めると農家さんも次第に昔に事を思い出してこられ、
昔は農家では馬を飼っていて馬小屋があって、馬にすきを引かせて耕していた。
川の水を田んぼに入れるのは、昔は足踏み式の水車があり、田んぼの横に流れている堀に水車を設置して人間が踏んで田んぼに水を入れていた。
精米は、米を大八車に積んで牛に引かせて、佐賀の山の方まで行くと、山の斜面を流れる水を利用した水車小屋があったそうで、そこで米を突いて持って帰ってきたそうです。 もちろん米の運搬にも自動車は使いません。大八車による陸運、または手漕ぎの船で水路を運搬する事になります。
仮にそうやって、原料米が調達できたとして、次にその米をどうやって蒸すのか?
現在はボイラーをひねれば蒸気が出ますが、昔は薪を燃やしていたはずなんです。その薪をどうやって用意するのか?
酒を造るとなるとかなりの量の薪が必要になります。となると蔵の近くに森が無くてはいけません。
蔵には180メートルの深さの井戸がありますが、当然電気や石油を使うからこんな深い井戸が掘ることが出来たわけで、化石燃料を使わず手作業で井戸を掘るとなると浅井戸になるでしょう。浅井戸で酒が造れるだけの沢山の水が出ないといけません。
そうやって一つづつ考えると、江戸時代の酒造りとは、地理的な条件が重要なファクターであった事が解ります。
写真は麹室です。

酒造りに用いる道具も木製。パイプもポンプもシューターも用いません。
タンクに仕込み水をいれるのも人が手で運びます。
昔は麹室はどうやって温度や湿度の調整をしていたのか?
火入れもどうするのか。火をおこす薪が必要になります。
ビンも使わずに陶器で販売。キャップも無いわけで、昔のような量り売りでの販売となると商圏が自ずと近所に限定されます。
そう考えると、現在の酒造りというのは伝統的な産業であるかのように言われていますが、実はそうではなく、石油や電気に頼りきった環境で造られてい事が浮き彫りになります。
そのひとつひとつどうやってクリアするかを考えると、とても面白いです。
そう考えると、かつて日本酒はとても高価な飲み物であったそうですが、それもうなずけます。
とても壮大な話になるのですが、そういう事をぜひやってみたいと語られました。
最後に訪問の証の記念撮影。蔵のおすすめ商品「花の露 純米酒」に感心する吾郎。

とても面白いお話を聞かせて頂きました。
現在酒蔵では日本酒が当たり前のように製造されていますが、よくよく考えるととても不思議な事です。白いお米から透明なお酒が出来てしまうわけですから。
しかも最初から作り方のマニュアルが存在していたわけではありません。
奇跡とも思える様々な偶然が積み重なって、現在の日本酒というものが形となって出来上がったのです。
それが文明化によって酒造法がマニュアル化され、生産性は向上し無難に造ることが出来るようになりました。
しかし生産性の向上と共に、新たな奇跡が生まれる可能性も限りなく減ったのではないでしょうか。
どの蔵もが美酒を造れるようになったものの各社、似たり寄ったりで、とても狭い範囲で味を表現しているように思います。
恐らく江戸時代に造られていた日本酒はもっとバラエティーに富んでいたに違いありません。
蔵元の試みは決して「美しい酒」「美味しい酒」を目指しているものではありませんが、日本酒の世界に新たな奇跡を生み出す可能性を秘めています。
もし実施に移される時が来たら是非、再び蔵に訪問して出来上がった酒を飲んでみたいと思いました。
商品の購入・質問は花の露(はなのつゆ)|株式会社花の露へお問い合せ下さい。
TEL:0942-62-2151花の露醸造元株式会社花の露
ここで書かれているデーターは筆者が訪問した時点の情報となります。
2012年04月24日
筑紫の誉(ちくしのほまれ)|筑紫の誉酒造株式会社
筑紫の誉(ちくしのほまれ)|筑紫の誉酒造株式会社
福岡県久留米市城島町青木島181番地酒名:筑紫の誉 ■創業:1897年(明治30年)5代 ■杜氏:柳川杜氏 ■仕込み水:中軟水 ■訪問日:2012/4/24
代表銘柄
筑紫の誉酒造株式会社は明治30年に鷲頭 裕次郎氏によって創業された現在5代続く酒蔵です。

現在でも蔵の周囲には多くの水田が広がっていますが、鷲頭 裕次郎氏は酒造業を行う以前は農家をされていたとの事。
創業当初の酒名は稲の寿といい、昭和13年に3社が企業合併した際に現在の酒名「筑紫の譽」が誕生。
日本3大暴れ川と言われる筑後川には「筑紫二郎」という別名があり、酒名はそこから付けられたとのこと。
しかし戦後に合併した3社が分離し、その際に鷲頭酒造の当主鷲頭孝氏が「筑紫の譽」の酒名を引き継ぎ現在に至ります。
ちなみに創業酒名の「稲の寿」は、この蔵から分家した宗像にある鷲頭酒造場が商標を持たれています。

福岡の日本酒は「少し甘口」と言われる事が多いのですが、筑紫の誉酒造が造る日本酒は昔ながらの福岡酒の味がする酒。
最近では福岡の酒蔵の中でも東北のようなスッキリしたタイプの酒を造る蔵が増えてきたそうですが、筑紫の誉ではスッキリした酒では無く、少しヘビーな酒。
昔ながらの味わいがある酒。
原料米は大吟醸には糸島産の山田錦を使用。その他は食米のヒノヒカリなどを使用。
仕込み水は「瑞穂錦の水」といい、近くにある「瑞穂錦」という酒蔵から良い水がとれるという事から、この周囲の酒蔵の多くはこの蔵の井戸まで水を汲みに行って酒造りに用いているそうです。
蔵元の話によると、この辺りの水を米を使ったら、そんなにスッキリした酒にはならないとの事。
上記写真中央の「原酒」が特に地元でよく売れているそうです。
写真は釜場です。

筑紫の譽酒造では今から約130年前に建てられた創業当時の建物の中で酒つくりが行われています。
写真では上手に撮れていないのですが、天井の木組みが美しく、昔ながらのとても感じのよい空間でした。
ここで木の「甑(こしき)」を使用し米を蒸しているとの事。
写真は麹室です。


代々柳川杜氏が酒造りを行なっていて、現在は76歳となる柳川杜氏の中で最年長のベテラン杜氏が酒造りをされています。
少量生産ですが昔ながらの手造りの良さを生かし、丹念な酒造りに専念されているとの事。
仕込み部屋に立つ5代目蔵元、鷲頭 勇人さん。


建物は130年前に建てられた創業当時のまま。
この時代の建物は全く釘が使われていないそうです。
写真は槽場です。

酒造期は12月からスタートし3月に終了。
かつて製造量が多かった時代は11月から4月頃まで酒を造っていたそうですが、冬季の寒い時期だけ酒造りをされているとの事。
蔵は昔ながらの建物の中で酒造りをされていますが、蔵の中が良くメンテナンスされいました。
古い蔵にありがちな、いつの頃から使っていないのかよくわからない道具や荷物などでゴチャゴチャになっている事もなく、とても美しく整えられた蔵だと思いました。
訪問の証の記念撮影。使い込まれた木の樽に感心する吾郎。

筑紫の誉酒造では5〜7月までの間、筑後川の下流でしか採れない幻の魚「エツ」専門の料理店『えつの豊』も営業されています。
エツは弘法大師が流した葦の葉が魚になったと伝えられる魚で、とても美味で筑紫の誉をはじめ福岡の地酒との相性も良いとのこと。
一般的に酒蔵訪問は冬季がお勧めですが、筑紫の誉酒造に関してはエツを食べることが出来る5〜7月の訪問がお勧めします。
商品の購入・質問は筑紫の誉|筑紫の誉酒造株式会社へお問い合せ下さい。
TEL:0942-62-2320筑紫の誉醸造元筑紫の誉酒造株式会社
ここで書かれているデーターは筆者が訪問した時点の情報となります。
2012年04月24日
清力(せいりき)|清力酒造株式会社
清力(せいりき)|清力酒造株式会社
福岡県大川市大字鐘ヶ江9番地の1酒名:清力(せいりき) ■創業:1876年(明治9年)6代 ■杜氏:三潴杜氏 ■仕込み水:中軟水 ■訪問日:2012/4/24
代表銘柄
筑後川の川沿いに位置する清力(せいりき) 酒造株式会社は、明治9年(1876年)に中村多平(たへい)氏によって創業した現在で6代続く酒蔵です。

多平氏は酒蔵を創業する以前は、船舶業を営んでいたそうで、当時は船でしか物資を運搬できなかった為、船舶業は今で例えるところ運送業のような存在だったようです。
明治以降、酒造免許が自由化されたものの、酒造免許の取得には大きなお金を必要としました。
多平氏は船舶業で資金を蓄え、酒造業へ進出されたのだと思われます。
所有していた船の名前が「清力丸」だった事から、清力という酒名を命名します。
清力酒造は順調に繁盛したようで大正7年に販売石数一万石を達成。
1919年(大正8年)に描かれたという当時の建物の絵を見ると、煙突が4本も描かれています。
蔵の年表によると明治39年に第3工場を建てたとあり、醤油も醸造されていたそうなので、煙突が4本もあったのでしょう。
物資運搬の船が筑後川から直接蔵の倉庫の横付け出来るよう、港まで備えられてあります。
また当時は、商売が繁盛している酒蔵が、若い画家や俳人を屋敷に住まわせ俳句や絵を創らせる、という事が広く行われていたそうですが、清力酒造には日本画家・青木繁を滞在され大作を残されたそうです。
写真は2代目蔵元が建てた事務所。

この建物は大川市指定文化財、福岡県文化財にも指定されています。
現在は大川市に寄贈され大川市立清力美術館として地元の人々に利用されています。
内装は豪華で事務所というより、応接室、社長室としての役割の方が強かったのではないでしょうか。
当時の繁栄ぶりが伺えます。
写真は蔵の主力商品。

現在、清力酒造では地元を中心に、上撰、本醸造と辛口酒を中心に販売されています。
福岡の日本酒は、隣の佐賀県などと同様に「少し甘口の酒」と言われる事が多いのですが、清力の酒は辛口が中心。
蔵のキャッチコピーが「しみじみと男心が通う酒」。その言葉通り男酒だそうです。
かつて周囲の酒蔵の多くが灘の酒蔵の下請け(桶売り)を行い、どんどん売上を拡大していった中、清力酒造は灘への桶売りをせず、地元を中心に販売を続けてこられたそうです。
その為、現在も地元が中心。地元を大事にしていこうという考え方。
地元の米を使って地元を中心に、普段の晩酌用の酒を販売している、というスタイルの酒蔵です。
写真は釜場。
写真は仕込み部屋です。

タンクが少し斜めに立てられていますが、こうした方が飲み口からお酒を出しやすいとの事。
写真は槽場です。
この地域は台風が多く、かつて大きな台風によって屋根瓦が飛ばされた酒蔵がいくつかあったとか。
蔵は近代的な建物に建て替えられ、とても合理的に配置されています。
訪問の証の記念撮影。とても丁寧に作られた木製の象を見て驚く吾郎。

現在、久留米周辺の酒蔵では、三潴(みずま)杜氏と呼ばれる杜氏の流派が酒造りをされています。
写真の象は、かつて清力酒造で杜氏を勤めていた永尾辰次郎杜氏。
三潴杜氏を代表する杜氏で黄綬褒章を受賞されています。
明治時代、城島の酒蔵の間では、酒造りの本場、灘を拠点としていた但馬杜氏を兵庫から呼び寄せるという事が流行ったそうです。
しかし筑後川の水は軟水の為、灘の酒造りだと良い酒が出来ないどころか腐造が起きたそうです。
その一方で地元の三潴杜氏達も酒造技術を探求します。
彼らは大川、城島の酒蔵に出向き、互いに酒造りの情報交換を行います。
同時に蔵元も研究熱心で、杜氏と共に研究を重ねます。
その結果、筑後川の伏流水(軟水)に適した暖地醸造を確立します。
今でも多くの酒蔵が残る酒の銘醸地には、優れた杜氏集団がいた事を改めて気が付きました。
商品の購入・質問は清力(せいりき)|清力酒造株式会社へお問い合せ下さい。
TEL:0944-87-2145清力醸造元清力酒造株式会社
ここで書かれているデーターは筆者が訪問した時点の情報となります。
2012年04月24日
若波、蜻蛉(とんぼ)|若波酒造合名会社
若波、蜻蛉(とんぼ)|若波酒造合名会社
福岡県大川市鐘ヶ江752酒名:蜻蛉(とんぼ)、若波 ■創業:1983年(明治26年)4代 ■杜氏:蔵元杜氏(三潴杜氏) ■仕込み水:中硬水 ■訪問日:2012/4/24
代表銘柄
九州地方最大の河川、筑後川。
その下流に位置する大川市には、かつては船のメンテナンスを行う船大工が大勢いました。
その船大工の技術を生かして家具作りが行われるようになり、現在では大川市の一番の産業が家具だそうです。
またこの周辺は「九州の灘」と言われたくらい昔から酒造りが盛んに行われてきた地域で、現在でも多くの酒蔵の姿を見ることが出来ます。その1社が若波という酒を造る若波酒造です。

若波酒造合名会社は大正11年(1922年)に、今村 春三郎氏が本家より分家し、おこした現在4代続く酒蔵です。
春三郎氏は今村本家酒造という酒蔵の家に生まれましたが長男で無かったので蔵を継ぐ事が出来ません。
そこで兄弟3名が大正11年に分家しそれぞれ独立。3件誕生した酒蔵の1社が若波酒造です。
創業したばかりのまだ若い酒蔵という事で、歴史にとらわれずに若い波を生み出そうという意味と、筑後川に輝く波が美しかったことから「若波」を命名。
3つに分家した酒蔵は、それぞれ「若波」「万代鏡」「金の井」という酒を造りますが、現在では若波酒造を残し全て消滅。
今村本家酒造も無くなってしまった事から、若波酒造が本家の跡を継ぐ形となり、蔵の創業は創業は明治26年(1893年)としています。
写真の方は若波酒造の杜氏、今村友香さん。

若波酒造では3代目蔵元の次女、今村友香さんが杜氏を勤め酒造りをされています。
流派は三潴(みずま)杜氏。
酒造りを行うきっかけですが、友香さんは京都の大学を卒業した後、舞台の仕事を目指されていましたが、蔵元のお父様が体調を崩されます。
その為、蔵に戻ってきて製造の仕事に携わったのですが、その時に酒造りの面白さを発見。
それがきっかけとなり、酒造りの道を決められたそうです。
弟さんが専務として経営方面の仕事をされ、友香さんは製造の仕事と、兄弟力を合わせて酒造りをされています。
写真は、限定流通商品の「若波」。

後ろの方は蔵人の庄司さん。宮城県出身の庄司さんは秋田県の酒蔵で蔵人を経て、若波酒造に来られたそうです。
写真の「若」と書かれた商品が、弟の専務さんが蔵に戻ってきて立ち上げたブランド。「わかなみ」と読みます。
地酒を専門の扱うお店のみに出荷している限定流通品で、現在若波酒造の顔として育てられている商品。
福岡の酒は、芳醇で味の乗った少し甘口に例えられる酒が多いと言われています。それに対し若波の酒は、福岡酒の中では綺麗で切れがよくスイスイ飲める酒。
写真は釜場。マックスで1.5トンの米が蒸せる甑(こしき)。

蔵では味のイメージを「味の押し波、余韻の引き波」という言葉を用いて表現。波のように味がさっと押し寄せてくるけども、すっと引いてくれる。酒を全てにおいて、そういう味を目指して酒造りされているそうです。
また仕込み水が軟水のため、柔らかい酒に仕上がる特徴があるので、杜氏が女性という事もあるので女性的な柔らかさも表現していきたい、との事。
写真は仕込み部屋です。

12月に酒母を立てて1月から仕込み開始。
原料米は糸島の山田錦、三潴の夢一献をメインで使用。
この地域は暖かいので、東北の蔵のようにタンクとタンクの間は密集させず、広めに間隔を開けているとの事。
写真は友香さん専用の移動式階段。

酒造りは男の仕事なので道具や設備が男性目線で作られています。
その為、小柄な女性杜氏だと10キロ以上の重さがある麹米を担いではしご登って投入したり、モロミへ櫂入れなど作業は、男性が行う以上に大変な作業との事。
そこで大工さんにお願いし作ってもらった移動式階段が上記の写真です。
友香さんの誕生日にプレゼントされたそうです。
サイズが友香さん用に出来ているので、蔵人は高さが合わず使えないとの事です。
写真は「あまおう」で造るリキュールの作業風景。

若波酒造の人気商品のひとつが、福岡のブランドいちご「あまおう」で造る、イチゴリキュール。
私が訪問した時は、既に今期の日本酒の製造は終了しており、代わりにイチゴリキュールの製造が行われていました。
写真はイチゴリキュールを絞っている様子です。

イチゴリキュールは粗濾過をして1年間熟成させたあと本ろ過で絞って透明にさせるとの事。
最後に訪問の証の記念撮影。

まだ誕生したばかりの限定流通「若波」は、首都圏で2件、地元に3件、東北で1件、計6件で展開中。
福岡のお酒は甘いと言われますが、甘いという印象は無く、少し香りがあったせいか都会的で洗練された酒、という印象を持ちました。
現時点では、この酒の存在に気が付き取り扱いをしている専門店は少い状況ですが、福岡県で注目すべき新進気鋭の蔵元の一つと言えます。
有明の魚介類とよく合いそうな芳醇醇口の酒。
純米酒の蜻蛉(とんぼ)を試飲し、感心している吾郎でした。
商品の購入・質問は若波、蜻蛉(とんぼ)|若波酒造合名会社へお問い合せ下さい。
TEL:0944-88-1225蜻蛉、若波醸造元若波酒造合名会社
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